We are not instant|Tokyo 7th シスターズ 3rd Anniversary Live 17’→XX -CHAIN THE BLOSSOM- in Makuhari Messe

THIS IS THE "LIVE"

THIS IS NOT INSTANT

YOU ARE NOT INSTANT

CHAIN THE STEPS

CHAIN THE TEARS

CHAIN THE ANGER

CHAIN THE FAILURE

CHAIN THE TRY

CHAIN THE LIVE

CHAIN THE STORY

THIS IS THE ONE AND YOURS

 「CHAIN THE BLOSSOM」Introムービーより

 

Overture

 Tokyo 7th シスターズの3rdライブである「CHAIN THE BLOSSOM」についての文章をお届けする。最も、ライブそのもののみならず、それを越えた何か大きなことや小さきことまで綴っており、結果的に何だかよく分からないことになっている。

 ライブ自体は今年の4/22・23に開催され、既にライブBlu-rayも発売されている(トレーラーはこちら)。ライブは掛け値なしにとても良く、人生で二つとない場だった。あまりにも強烈な体験だったので、公演後に色々溢れてくる考えを言葉にしてまとめるのは無理かもしれないと、半ば諦めていた。公演の感想を綴ったり、述べたりしていた人たちが羨ましかった。それから、もう半年以上が経過してしまったのだ。しかし、桜が散り、青空と入道雲が広がり、秋の足音が聞こえるその間も、ぼくはのろのろとしていた。そして、7ヵ月ほど経ってハルカゼが吹き、ようやく文章をしたためようという決意がみなぎった。

 ぼくは、去年の1/4に1stライブ「H-A-J-I-M-A-L-I-V-E-!!」のBlu-rayを観て感銘を受け、2ndライブに参加し、3rdライブに至って3公演全部参加するまでになった。もちろん、ゲームを含め、もっとのめりこんでいる人も大勢いるだろう。が、少なくともぼくの人生で、これほどまで共に歩み、多くを受け取ってきたという自覚がある作品はそうそうない。だから、ぼくがナナシスに出会う前に考えてきたことも含めて動員して、何とか応答したいと思った。

 

1st GEAR

 「2015年」や「2034年」といった文字を見ると、自然と、もう2年経った、あるいはまだ17年ある、という時間の感覚が生まれる。それは日常生活でも、入店してから3時間経った、待ち合わせまであと1時間あるといったように感じることである。ところが、何日、何週間、何か月という水準であれば、日常生活に回収されるものであるが、何年を超えてくると、もう少し深いところで考えなければならない時間のように思えてくる。

ライブタイトル

 Tokyo 7th シスターズのライブは、「2.5」と称される2ndライブと3rdライブの間に開催されたものを除くと、大きく分けて今までに3回開催されている。それぞれのタイトルは次の通り。

 

 ・t7s 1st Anniversary Live 15'→34'「H-A-J-I-M-A-L-I-V-E-!!」

 ・t7s 2nd Anniversary Live 16'→30'→34' -INTO THE 2ND GEAR-

 ・t7s 3rd Anniversary Live 17'→XX -CHAIN THE BLOSSOM-

 

 2030年はセブンスシスターズの、2034年777☆SISTERSの誕生の年である。3rdライブから振り返って考えると、1stライブは、777☆SISTERS誕生の年へと宛てられた、いわば誕生・萌芽編だ。1stライブは、最初の曲が『H-A-J-I-M-A-R-I-U-T-A-!!』、最後の曲が『Star☆Glitter』という、どちらも何か新しいことが始まる、そんな予感が生まれる曲である。一方、2ndライブは一転、2034年にとっての過去である2030年=セブンスシスターズを間に挟むことで、ある日ひょっこり777☆SISTERSができたわけではなく、彼女たちにバトンを渡すものがいたということ意識させる。それを忘れるな、といわんばかりに、2ndライブの1曲目は『SEVENTH HAVEN』という鮮烈なセブンスシスターズの曲だった。それを受けた777☆SISTERSは、ライブの最後に『僕らは青空になる』を歌うことで、セブンスシスターズとは違うあり方を示そうとする。

 では、3rdライブは何だったのだろうか。

CHAIN THE BLOSSOMというテーマ 

 3rdライブのテーマは「CHAIN THE BLOSSOM」、花を繋いでいくことだ。CHAINからいこう。これは、誰かから何かを受け取り、何かを受け継ぐこと(DNA鎖はまさにそう)の意思表示だ。この概念には、以前に差出人である誰かがおり、以後に受け取り手である誰かがどこまでも続いている (閉じる=完結する、ということがない) 、というイメージが包含されている。

 過去/今/未来のイメージには2種類あると考えている。1つは、それぞれが確固としたものとしてあるように感じられるイメージであり、例示すると「1957年にスプートニク2号が打ち上げられた」「今は6時10分である」「2020年に東京五輪が開催される」といったものだ。これらは、不動で完結しており、自分がどうしようが変わるものでもなさそうだ。もう1つは、あるきっかけをもって、今この瞬間には以前と以後があるという想像が生まれ、それが広がって過去と未来という実感として析出してくることによるものだ。このきっかけは、花が咲いているのを見ること、雨上がりに虹がかかるのを見ること、美しい音楽を聴くこと等、人によって異なってくるとは思う。

 ぼくには、ある人が未来へ向かうためには、後者の方のイメージを必要とすると思えてる。なぜなら、後者のイメージによって、過去/今/未来という時間をもつ自分自身という感覚が発現 (あるいは再現) し、それと同時に、自分自身が、ある程度過去に制限されてはいるものの、未来を変えられないことはない存在である、という意識も合わせて生み出すからだ。誰かの背中を押すのがナナシスのテーマならば、ライブ (=現在進行形) で「CHAIN」というテーマが掲げられたのはとても必然的なことのように思える。はるか遠くどこまでも続いていくように、踏み出すのだ。

"LIVE"

  3rdライブの冒頭、Introムービーで「THIS IS THE "LIVE"」という文が出てくる。これは、1stおよび2ndと異なり、3rdライブではバンドによる生演奏を行っている、という表明であることは間違いないだろう。しかしそれ以外にも、このライブが文字通りLIVE=生きることであり、また現在進行形であるものいう主張とも感じられる。今を生きることを明瞭に感じることで、過去があり、未来があることにつながる。そして、「THE "LIVE"」、特定の、ここにしかないということも大切だ。この文は、ムービーの最後に出てくる「THIS IS THE ONE AND YOURS」と共鳴し、それぞれの人が、この瞬間に集結することを示す。ライブの汎通性が宣言される。生きることは普遍的だが、同時にぼくはぼくだけの生を生きているものである。ぼくの人生を誰かが生きることはできない。そして、その生きているそれぞれの人が、この場に集まっている。誰かが生きていること、そしてあなたが生きていること、その両義性を含んだ表現が、THIS IS "LIVE"なのだ。

ハルカゼ

 ハルカゼは、未来の他者に届けられる。

 ライブ直前に発売された『t7s Longing for summer Again And Again ~ハルカゼ~』では、短編アニメーションMVが作られた。MVの中では、2040年に生きる学生が、『ハルカゼ』を聴いている。曲は背景でもあり、主題でもあるように見える。背景であるのは、MVの登場人物に対して、曲が寄り添っているだけであるから。主題であるのは、まさにその寄り添っている曲こそが、2人の登場人物を繋ぐものとなっているから。

 「→xx」から考えると、舞台は'40でも、'39や42'でも構わなかったのだろう。どこの未来に飛んでいくかは風次第だ。風に乗って種を蒔き、どこか、なるべく多くのところにたどり着いてほしいという可能性に賭けることの表明。つなぐとはそういうことなのだ。それが、次のシスターズを生み出すことにもつながる。

 ハルカゼは、MVの中で、合唱曲として歌われていることが示される。合唱曲は時代を超えて、歌い手を区別せず、歌い継がれていく。合唱曲というのは不思議なもので、発売された瞬間から皆が知っている合唱曲になる、ということはない。誰か合唱し続ける、それが続いていく、そういう力で合唱曲になるものだ。誰が歌うのかは分からない。でもそれは、自分自身も含めた未来の他者に向けられる。

 「誰もがみな春を待つ蕾」。誰もが、春日部ハルという花を咲かせる暖かさを待つ。冬の冷たい風のような、過去の苦しみの時期を思い返し、それでも明日に向かって進む。これを見ている/聴いている自分は、支配人ではなくただの1人のリスナーだ。そうして一度不特定多数の誰かになった後、それでもこの曲がぼくに届いてくる。そして、誰かも同じように曲を聴いているのかもしれない、という小さな想像が生まれる。

 3rdライブは777☆SISTERS、さらにいうと春日部ハルが主役だった。その下準備が1stと2nd、そしてハルカゼのリリースなのだ。受け取る立場から、自身の想いを固め、未来に向かってハルカゼとなる。それは過去(セブンスシスターズ)からのCHAINを受け継ぎ、そして未来へ向かって花を咲かせることで表現された。

Interlude
手紙

 手書きの手紙は面白いメディアだ。まず、手書きで手紙を書くのは大変時間がかかり、面倒だ。そして、だからこそ、手紙の端から端まで書き手の思いが込められており、語りかけてくるような感覚を強く生み出す。そして最後に、受け取った後にいつでも返事を書いていいような、終わりのないメディアでもある。それは単にずっと続いていくのだ。

パンフレット

 どんなライブでも、物販でパンフレットが売られていれば、毎回買うのが楽しみだ。後になって読み返すとき、ライブ前の高揚感を思い出すことができるからだ。幸いなことに、ナナシスではライブパンフレットが売られている。

 1stのパンフレット表紙はセブンスシスターズ777☆SISTERSが登場している。全員集合で、お披露目会のようだ。2ndの表紙はセブンスシスターズのみだ。このライブの主役がセブンスシスターズであることを示している。このステージは我々が導いていくのだという強い存在感を示していた。とはいえ、暗い空を背景に、ホログラム加工がきらめく表紙をめくると、青空が見える。3rdの表紙は悟ったかのようだ。そこには誰もおらず*1、舞い散る桜の花びらとライブのタイトルだけがある。ぼくは3rdの表紙が好きだ。

 3rdのパンフレットでとても気に入っているページがある。アプリリリースやCD発売など、Tokyo 7th シスターズのこれまでの歩みが記された、「Tokyo 7th  Sisters HISTORY 2014-2017」というのがそれだ。ディスコグラフィーではなく、ヒストリー。単なる記録・目録ではなく、歩んできた歴史が載っている。ひょっとすると、歴史のある他のコンテンツでもそういうページがあるのがお決まりなのかもしれない。でも、ヒストリーという今までの歩み、辿ってきた過去、受け継いできたことを忘れない、というのは3rdライブのテーマにも沿っていて、とても良いのではないだろうか。THIS IS NOT INSTANTなのだ。

 

2nd GEAR

(再) CHAIN THE BLOSSOMというテーマ

 「THE BLOSSOM」から考えよう。ライブにおけるBLOSSOMは桜の花で象徴されている。桜の花は、咲いてすぐに散るものとして有名だ。そして、花見と称して、皆で集まって眺めるものでもある。ほんの一瞬かもしれないが、誰かの心にも花を咲かせ、またその誰かをもまた眺めることができる、互いが花を通じて感じあう、そういう機会を作る花だ。そして、桜は来年も咲く。でも、多分来年の花は今年のものと少し違う。少しの差が積み重なって、アメーバからヒトが生まれたように。そうして、異なった仕方で、花を何度でも咲かせる。このライブが人生の比喩なのではなく、反転して、人生が、このライブの比喩なのだ。

反復

 つなげるということは、繰り返すということだ。似姿=姉妹たちを生み、育ててゆく。777☆SISTERSセブンスシスターズの反復である。しかし、デジャ・ヴュではない。繰り返しの枠組みの中ではあるが、まったく同じものやことを作り出すのではない。セブンスシスターズはユニットとしては死んだのかもしれない。でも、もっと大きな流れ、プロセスの持続の中で、生き続けているのだ。

 ナナシスには季節のモチーフが頻出する。季節は、単純に回帰するものではない。一見連続性が感じ取れるが、しかし、去年咲いていた花は一度枯れている=死んでいる。つまり、全く同じものを来年も見ることができるわけではない。しかし、同じ場所にとどまることで、新たな生命がまたそこから始まる。そして増殖する。セブンスシスターズに比べ、ナナスタシスターズは人数がとても多い。子どもたちはいつだって増殖して多くなるのだ。

ナナスタ

 ナナスタとは、プレイヤーが二代目支配人となっている、劇場型スタジオ『777 (スリーセブン) 』のことである。木を植えるとそこに人が集まるように、スタジオは集結する場となっている。集まる人が多ければ活気が生まれ、さらに多くの人を呼び寄せる。場所は重要だ。

 ナナシスの舞台は、Tokyo-7thという、2023年の新Tokyo湾コスモポリス計画によって開発された、国際娯楽都市区画なる法令で制定された区画である。そこはナナスタにとって、数々のアイドルたちが輝いていたという過去と、4UやKARAKURIといった現在のライバルが同居する場所である。場所は重要だ。

Star☆Glitter

 『Star☆Glitter』は特別な曲だ。というのも、ぼくの勝手な思い入れというよりも、ライブでの扱いを見ているとそうとしか言いようがない。『Star☆Glitter』は、1stライブと3rdライブにて、キャスト全員で歌われた唯一の曲だ。1stライブの最後の曲が、3rdライブの最後で反復する。曰く、この曲は原点であり始まりの曲であると。どういうことだろうか。

 夜空に輝く星は人々の憧れだ。スター歌手という言葉が生まれるのもうなずける。晴れ渡る青空に顔を向ける前、その前夜、「最初」の想いは夜空の星々の輝きから誘発される。ああいう風になりたい、そう思って踏み出そうとする時、周囲はたいてい暗闇で、でもそこに輝きがあるからとりあえず行く気力は生まれる。それはすでに過去の光ではあるが、しかし前を照らす、そういう出発点の光景。始まりは誰でも同じ、暗闇に輝く光を頼りに進むものだから、それはどんな時代、状況でも同じである。だから『Star☆Glitter』は、セブンスシスターズも、ナナスタシスターズも関係なく、全員で歌う曲なのである。

僕らは青空になる

 夏の青空を見るのは清々しい。「晴れやか」という言葉の意義がすとんと心に落ちてくる。青空は不思議だ。それはどこまでも広がっている。誰にでも開かれており、見上げればそこにある。一方で、それは遠くにあるものだと感じさせない。むしろ、非常に近くにあり、真っすぐ自分に向いているもののように思える。青空は自分を映す。ただし今の自分ではなく、自分の未来を映すのだ。青空は開かれている。閉じ込めるものはない。

 「誰かの背中を押す」というのは、ナナシスのテーマの一つである。背中を押すためには、その人の視界に入らず、後ろに回る必要がある。そうなると必然的に、背中を押すことは押される人の視界を共有することにつながる。応援とは、向かい合って声をかける姿が思い浮かぶが、むしろ、こういう姿が自然な気がする。777☆SISTERSは、背中を押す人と同じ方向を向く。そして、同じ青空を共有しつつ共に歩む/走り出す。同じ視界を共有することは非常な親近感を生む。親しみは、視界を共有する人だけでなく、青空にも向けられるようになる。

 「運命だよ ココニイルコトは」という歌詞がある。運命という概念は難しいもので、必然的に決まっていた (運命づけられている) という意味もあれば、「ここで出会ったのも何かの運命」という使われ方のように、偶然性を含有してもいる。いわば必然と偶然が混ざり合ったものだ。ある人が置かれている状況は、賽の一振りが連なってできた、偶然の産物である。でも、その偶然性に直面したうえでなお、そのことを自らのこととして受け止め、ありえたかもしれないことを振り払い、未来への可能性を自らに付与していく。そうした自己を考えることが「運命だよ ココニイルコトは」という決意に表れている。

Interlude
セットリスト

 ライブ前の楽しみの1つとして、セットリストがどうなるか、ということを想像することがある。もちろん、この曲は間違いなく演奏されるだろう、という予想はある程度事前にできる。曲数が少ないため、演奏される曲がほぼ予想できる場合もある。でも、順番や、誰がどう演奏し、誰が歌うのか、というのは、曲が始まるまでは分からない。それでもぼくはセットリストの予想をするのが楽しい。その時、ぼくは何を期待しているのだろうか。一体、セットリストとは何であろうか。送り手と観客の間の緊張感?

 ただ間違いなく言えるのは、満足するライブにおいては、実際のセットリストが事前の予想と比べてどうだったか、という些末なことはどうでもよくなる、ということだ。とても良かったライブのセットリストは、驚きと興奮、そして次への期待を始動させ、また見ず知らずの観客という群衆同士を横につなぎ、次のセットリスト予想へと駆り立てるのだ。

 

3rd GEAR

アイドル

 アイドルというのは、おおよそ歌って踊るなどのパフォーマンスを中心とする芸能人のことを指すということで相場が決まっているように思われる。まあそうじゃないだろうとぼくは思う。そこで、もう少し定義を調べてみる。すると、コトバンクに面白い定義がある。曰く、「自己を投影し、一体化することで自己表現及びカタルシスを受ける対象のこと。なお、人物に限定されない。」*2。いい線をついていると思う。なぜなら、自己が出てきており、かつ人物に限定していないから。でも40点だ。ぼくならこうする。「自己を投影したうえで、何か痕跡を残されたうえで再び自己に戻るという運動の過程で関わる対象およびその運動自体のこと」。はあ?という方もいると思うが、ぼくにとってアイドルというのは、自分が向き合ったときに自己を変換する装置であり、また変換の動きそのものでもあるのだ。

 おおよそ人というのは、いつも自分の在り方や身の回りのことについて、懐疑的で、何かしら嫌悪しているものだ。そこから回復するのは、決まって何かを通じてである。本当にやりたいことに向かって心を開き、立ち上がって進んでいく、そういう運動や運動によってつながっているモノもまた、アイドルとみなせるのではないかと思う。それは能動なのか受動なのか、もはやよく分からない活動である。だから、誰々がアイドル、何々がアイドル、というように、何らかの形に具体化できるアイドルは理解できるのだが、それだけではないのだ。運動は、止まった瞬間に死ぬ。だからつなげることが大切になる。そして、アイドル (=運動) を生じさせるのに最も適した場は、ライブ (=生きること) なわけで上手くできている。

 もう1つ面白い定義がコトバンクにあった。曰く、「昭和では高嶺の花。平成では路傍の石。」。これは揶揄の意図があるのかもしれないが、ぼくにはポジティブに捉えられる。なぜなら、どこにでもあるものが偶々変換装置になりうるという開かれた可能性を示しているから。生まれつきのアイドルはいないということが言えるわけだ。そして変換装置もまた、変換の過程で変わっていくことができる。この動きは永続性を思わせる。

H-A-J-I-M-A-R-I-U-T-A-!!

 続いていくということは、先がいて後がいるということだ。だから、ナナシスのプレイヤーは二代目の支配人であるし、かつてセブンスシスターズとして活動していたコニーさんがマネージャーをしているのであり、2040年が舞台のハルカゼMVでは、777☆SISTERSの楽曲を歌う合唱部の学生が描かれている。 

 『H-A-J-I-M-A-R-I-U-T-A-!!』は、どんなに遠くたって、春舞う綿毛のように歌を届けると宣言する。届けるのは綿毛、つまり種子である。それは過去の記憶を宿しつつ、未来の花を生み出す元となるものだ。曲名にハイフンが入っているのがずっと謎だった。今なら分かる。それはバトンである。12文字=12人の777☆SISTERSがそれぞれがバトンを受け取り、また渡し、そうすることで種をつないでいくイメージを喚起する。

 あまりにも目立つところにあるので忘れられているが、ナナシスのロゴには、「i-DOL n-EW g-ENERATION」という字が細かく付されている。これもハイフンだ。最初は小さな一歩=小文字である。でもそれが、ハイフンというバトンをつなぎ、大きくなって、新しいものを生み出す (generate) 、そんな願いが込められているように思える。

 1stライブと同様、3rdライブでも、777☆SISTERSが最初に歌ったのは『H-A-J-I-M-A-R-I-U-T-A-!!』だった。でも、3rdライブでは、セブンスシスターズの後に歌われている。ぼくにはこの差は重要なもののように感じられる。

KARAKURI

 2017年1月、ゲーム内で、EPISODE KARAKURIが公開された。777☆SISTERSのライバルユニットであるKARAKURIが、どのような歴史を経てTokyo-7thのトップアーティストとして君臨し、またその歴史ゆえに呪縛に囚われていたかということが分かるストーリーだった。

 当たり前だが、777☆SISTERSは、姉妹同士で結成されているわけではない。中には晴海三姉妹のように実際の姉妹もいるが、基本的には偶々集まったよく分からない12人のグループだ。対して、KARAKURIは違う。まず、本当の双子の姉妹である。また、アーティストとしての天性の才能を見いだされ、幼い頃からその道を歩むものと周囲から規定されてきた。いわば、確固たる、必然としてのシスターズがKARAKURIだ。彼女たちは完全で、それ自体で完結している。だがそれゆえに、人々はKARAKURIに対し、望む姿を投影するだけの、パッケージ化された、器としての機能しか求めることができない。そして彼女たちは、勝利(『Winning Day』)を歌い上げる存在になっている。だが、誰が何と闘って勝利したのか?確固たる存在ではない、ふわふわとした、偶然によって生み出されたグループである777☆SISTERSは、その空っぽの勝利を揺さぶる。そして、EPISODEの最後では、KARAKURIの双子は一人一人に解体され、それぞれ自身から再生する。

 残念ながら、KARAKURI役の秋奈さんがライブ前に怪我をされたことにより、KARAKURIは3rdライブに出演しなかった。偶然のシスターズが必然のシスターズを解体し、セブンスシスターズという円環から解き放ち、新たな始まりへと背中を押す。それは、このライブの主軸の1つとなる、重要な物語になったはずだ。見方を変えると、そういった大きな存在の不在を感じさせなかったことが、4UとLe☆S☆Caの活躍もあったとはいえ、むしろ、この作品が少々のことでは揺るがない強い地盤を築くことができていたことの証といえるのかもしれない。

 とはいえ、それで終わらせるにはあまりにもったいない。KARAKURIが出演していたら、3rdライブはこうなっていたはずだという空想をしてみたい。KARAKURIは、EPISODE KARAKURI中で開催される音楽フェスにおいて、777☆SISTERSの後に登場し、パフォーマンスする。ならば3rdライブでは、Le☆S☆Caの位置で歌うはずだ。曲は、EPISODE KARAKURIでのライブと同じ順番で、『Winning Day』→『B.A.A.B.』→『-Zero』。そして、二人組ユニットのNI+CORAが歌う『You Can't Win』に繋がる。KARAKURIの再生は、777☆SISTERSに助けられ、勝利できないところから始まる。もし自分がその時の観客だったら、どう応答すればよいだろうか。あるいは、どう応答したいか?

 

Longing for summer Again And Again

THIS IS THE ONE AND YOURS

  ぼくは、音楽と文学が好きだ。音楽と文学の魅力は3つあると思っている。1つは、特定の時代や場所や人物たちを超え、歌い・読み継がれる普遍性、つまりあらゆる人間に通じる広さがあるということ。もう1つは、その場所で、その時代に、その人が歌っている、あるいは演奏しているという瞬間の輝きを観ることが、物語を読むことが、特別な魅力を放つことがあるということ。そして最後に、ほんの微力ながら、自分も作品を生み出す1人として関わっているという想いを持てること。ナナシスもそうなのだ。作品に触れるたび、ぼくは、自分の人生を感じるとともに、作品の歩みと作り手の想い、そして作品を受け取っている誰かの人生を感じることができる。

 テキストというのは、受け手の応答次第でなにものにも変わる。この文章はたかがぼくなりの応答にすぎないので、もし何かを受け取ってくれた人がいるとすれば、沢山の人びとに向けてナナシスの種を蒔き、未来の花を咲かすことにつないでいってくれたら、何よりよいと考えている。というわけで、何を書こうとしていたのかさっぱり思い出せないが、そろそろこの文章も仕舞いだ。シスターズ (姉妹) だけにね。

2017.04.22-23 幕張メッセ→2017.12.02 東京

 皆さんは今、何を聴いているだろうか?ぼくの最近のお気に入りは、『Snow in "I love you"』だ。ぼくらは青空になるとともに、雪を降らせることもできる。多分次のライブで歌われたら泣く。

 

*1:普通、アイドルリズムゲームのライブで、パンフレットの表紙に一切キャラクターが出ないことがあるのだろうか?

*2:一般の人からの投稿から選ばれた優秀作品の一つらしい